Vol.36 はみ出し者の地平線  著:明媚 朋郎

今号の"pounds"で心の臓を鷲掴みにされるような行がありました。グラント・フレミング氏のインタヴュー中、例のポール・ウェーラーとジョー・ストラマーの奇跡のツー・ショット。それについて語ってくれている話の中の一行。「ポールにいたってはパンク・ムーヴメントをアート・スクールとミドル・クラスと定義付け、それをハッキリ公言していたし、その後その考えは強くなっていったように思う」この行は俺の中で物凄く響いた。忘れていた感情が甦る感覚。国も違えば状況や時代、なんもかんも違うかもしれないけれど。なんだか物凄く響いた。今の自分に。18歳の頃、本当に何も知らない糞ガキだったけど、そのぶん諦めも知らなかった。レベル・ミュージックはパンク・ロックしか知らないもんだからパンク・ロックが最強のレベル・ミュージックだと信じた。自分自身を歌う事を否定されるとは思わなかったし、みんなが同じ生まれでも立場でもなくて、男と女だけじゃなくて、正義と悪だけじゃくくりきれなくて、それを自由に表現できる音楽がパンクだと思って高鳴る胸を押えきれずに北新宿で歌詞を書き続けた。コック・スペアラーがキングス・ロードに対しイーストエンドからの返答を歌ったように。コックニー・リジェクツの"Here comes the new punk"宣言みたいに。高台の奴等に対して一矢報いる、否、正直こう思った。怒ってもないのに叫んで、誰もがボロを着ているけど腹も空かしちゃいないって。俺達が本当の叫びを聴かせてやるって本気で思っていたんだよね。俺みたいな人間にすらパンク・ロックは間違いなく勇気と夢、未来を与えてくれたんだ。俺もやってやろうと思っていたんだと思う。カウンター・カルチャーを俺達から発信したい。心底やり返したかった。社会に対して。メイン・ストリームに対して。そんな感情で溢れていた。だから必然的にパンクの芸術、アート的な側面よりも、自分はリアリティーを欲した。正直、東京で目にする専門学校の人達のオシャレさには度肝を抜かれたし本当は大好きだった。だけどね、だけど認める 訳にはいかなかったんだと思う。そこだけが自分の唯一のアイデンティティーだったからね。嫌いになろうとした。憎くもなくても憎い振りをしたかもね当時。けどボンボンは大嫌いだったよ。親の脛かじって何がパンクだ!とか思っていたけど。だからって人の物盗んだり、人を傷つけたりするのも別にパンクじゃなかったわけで・・・・。難しい定義さ。最終的には自分の感覚だからね。それでも俺達はパンクって言葉に拘った。当時は大麻を持っているだけでさえ「お前は本当にワルだな」みたいなノリだった。若さもあるし、mid 90って時代もあっただろうけど、皆がピュアだった。18の頃、東京で出来た友達のバンドには服飾の専門学生が物凄い人数で見に来ていたんだ。そりゃあオシャレだった。「それどこで売ってるん?」って聞きたいけど聞けない。雑誌で見た様な夢の世界さ!だけど仲良くしたいのに若さ故か「ワシはお前等と違うんじゃ!」みたいな感情。はずかしながらも確かにあったよ。「俺25なんだ」って聞いて「なんだこの老いぼれは!さっさと実家に帰れ!」なんて思っていた。JAMのイン・ザ・シティーのまんま。正直にそう思っていた。20越えたら死にたい。本気でそんな事を考える夜もあったんだよ。アホみたいだけど。きっと当時の俺に今の光景を見せると泣いて突っかかってくると思う・・・・「なんで!なんで!なんで!おめおめと生き恥さらしてるわけ?」って(笑)。服飾の専門学生達は洗練されていた。もう俺達とは感覚が何もかも違うのかと思うほど御洒落だった。クラブやライブハウスで出会っても吞む酒が先ず違っていた。たのむ食べ物も。髪の毛も俺達が使うシャンプーとは違う匂いがした。アート・スクール(あえてこう呼んでいいかな)の周辺のバンドもオーディエンスもイカしていた。女の子は滅茶苦茶キュートだった。パンクスもそれはカッコ良かった。青梅街道より代々木方面(渋谷・原宿)はアート・ スクールの人達のテリトリー。で俺達は大久保、中野、高円寺。なんか勝手にそんな印象があった。西新宿には新宿ロフトがあった。沢山のレコード屋が軒を連ねていてさ、服屋も何軒かあって本当に賑やかだった。そんな時期に"SHAM69" の再録ベスト日本盤語訳付きを聞いたんだ。アイツらがオシャレなパンクだったらワシ等は汚れた顔の天使で行くで!そりゃあ、キス・ミー・デッドリーもカッコエエし大好きだったけどヘイ・リトル・リッチ・ボーイはワシの事を歌ってくれたんよ。って素直に思えたのも事実。パンクに心酔したのは見た目のカッコよさ、カッコイイ音楽も勿論あったよ。けれど俺の場合最終的に惚れたのは言葉だった。言葉と迸るエネルギー。今しかないって刹那の連続。そんな表現に心奪われた。自分も自分の歌を歌いたいって。国内のバンドもそりゃあ聴いたさ。聴きたおした。「俺みたいなヤツの為に歌ってくれてるんだ」って一瞬本気で思えたけど自分の中で疑問が生れた。けどこれはアイツら の賛歌で。俺達のじゃない。俺達みたいな人間のパンクが欲しいって心の底から思う時期が確かにあったんだ。勝手な独りよがりな話だよ。けどね俺ももういい歳さ、包み隠さず伝えていきたい。ライブ見に行くとなんかカッコエエだけで、いや、カッコエエんよ。素晴しい事さ。なんか正直「そんなもんか」って思っちゃったのも事実。カッコばっかだったりワザとらしいだけだったり。勝手な印象だけど。そう感じたんだよね。けどそんな時に友達とかと出会うわけでさ、また世界が変わってゆくわけ。西新宿にあった"AIRS"ってビデオ屋で(ずっと視聴できるンよ)、天パーの先輩が「自分自身の暴動を起こせ」とタンと唾を撒き散らして歌うビデオを見たり。感化院脱走や"ナリタクナイ"を死ぬようなテンションで歌うゴリラみたいな先輩を閉店までずっと見てたんよ。新宿ジャムのブッキングには必ず1バンドはパンクバンドが出ていた。どんどん仲良くなってね、みんな。刺激的なバンドに沢山出会った。音源こそ残してないけど本当に素晴しいパンクバンドに沢山出会った。今の歳になってもさ、冬の夜にフラッと1人、明治通りを歩いて新宿JAMに向かう事がある。ライブハウス前に腰かけて当時の俺達と会話をすることがあるんだよ。